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日英150年(o^^o)☆彡

いまから42年前の昭和50年5月7日。

羽田空港にひと組の夫妻が降り立った。英国のエリザベス2世女王と夫君のエディンバラ公爵である。

英国君主の来日は初めてのことだった。

その日の夕刻には、皇居で昭和天皇主催による晩餐会が開かれ、130人の貴顕が出席するなか、日英両国の友好の深まりが確認された。

 思えば、近代日本を初めて訪れた「国賓」も英国王族であった。

明治2(1869)年7月、当時のビクトリア女王次男ルフレッド王子が豪州訪問の帰路に立ち寄ったのである。

16年に「鹿鳴館」ができるまでは、政府が徳川幕府から接収した「延遼館(えんりょうかん)(のちの浜離宮)」が迎賓館としての役割をはたしていた。

王子はここに宿泊して、明治天皇から歓待を受けた。

明治初年のこの段階では、まだ宮中晩餐会などなかった。

天皇は自ら延遼館を訪れ、王子に茶と菓子を振る舞われるというかたちの接遇であった。

 それから12年後にやはり延遼館を訪れることになったのが、アルフレッドの甥にあたるジョージ王子。

のちの英国王ジョージ5世である。

年子の兄エディとともに海軍の見習い士官として世界周遊の訓練の途上、日本に立ち寄った。

彼らもまた明治天皇から歓待され、この頃までには延遼館でも西洋式の晩餐会が催されるようになっていた。

明治以降の近代日本にとって、「大英帝国」は政治・経済・軍事・文化などあらゆる分野においてお手本とすべき国であった。

やがて極東の安全保障問題をめぐり、日英同盟が結ばれた(明治35年)。

さらに日露戦争後の日本は、英国から真の同盟者とみなされ、最高位のガーター勲章が明治・大正・昭和の歴代天皇に贈られるようになった。

皇太子時代の昭和天皇は、大正10(1921)年に欧州歴訪の旅へと出かけ、最初に降り立ったのも英国だった。

かつて祖父・明治天皇から歓待を受け、いまや国王となっていたジョージ5世が当時まだ20歳だった裕仁皇太子を大歓迎してくれた。

 しかしそれからわずか20年後に日英開戦となった。

昭和天皇に与えられたガーター勲章剥奪され、4年にわたる死闘も終結した。

昭和26年にサンフランシスコ講和条約で政府間の外交関係は再開したものの、日英両国間の「わだかまり」は続いていた。

そこに風穴を開けたのも英国王室だった。

まず2年後のエリザベス女王戴冠式に、明仁皇太子(現天皇陛下)が招待された。

1960年代に入ると、日英双方の王皇族が交互に訪問するようになり、それは昭和46年の昭和天皇香淳皇后による英国ご訪問へとつながった。

天皇にとってそれは半世紀ぶりの訪英だった。

バッキンガム宮殿で催された晩餐会では、この直前に名誉が回復したばかりのガーター勲章天皇の胸でキラキラと輝いていた。

その答礼として4年後に女王夫妻の来日が実現した。

美しい女王は日本各地で大歓迎を受けた。

それから11年後にはチャールズ皇太子とダイアナ妃が訪日し、「ダイアナ・フィーバー」が列島を駆けめぐった。

さらにその29年後の平成27年2月には、2人の長子ウィリアム王子が日本を訪れた。

この間に、徳仁皇太子殿下と秋篠宮殿下、さらに秋篠宮家の眞子さまがそれぞれ英国に留学され、今や日英の皇室と王室は3世代にわたって家族ぐるみのつき合いで結ばれている。

 もちろん第二次世界大戦の記憶は、旧英領東南アジアでの「捕虜虐待問題」をめぐっていまだにしこりとして残っている。

英国の欧州連合(EU)離脱後の日英関係も前途多難かもしれない。

しかし、王室を媒介とした150年もの絆を保ち続けている両国は、大戦という「恩讐の彼方に」、これからも協力し合いながら21世紀の世界を生き抜いていくことだろう。

明仁皇太子のご訪欧

 昭和28(1953)年3月30日、明仁皇太子(現天皇陛下)は横浜港を出発し、カナダ経由で欧州へ回られた。

英国で女王の戴冠式に出席した後は、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダ、スウェーデンノルウェーデンマーク、西ドイツを経て、アメリカへと向かわれた。

各国で王侯らの歓待を受け、西独ではアデナウアー首相、合衆国ではアイゼンハワー大統領から親しく接せられ、6カ月半に及ぶ旅を終えて10月12日に帰国された。

                   

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